くぐもる光とともに 樋口健彦展・2013 ギャラリー川船 September 9-21
天野 一夫
あまの・かずお /
美術評論家・豊田市美術館チーフキュレーター
私は基本的に現代日本陶芸が嫌いである。
批評家だからもう少し言うなら、陶芸作家はあまた居るものの、そこに現代の美術の可能性を感じさせる才能は多くは無い。誰もが自分は他とは異なるかたちを物し、これまでに無い造形を誇っているのかも知れないが、その「様々なる意匠」は、気の利いた自分なりの陶のデザイン様式を造ったに過ぎない。広く言えばそれは新たな工芸意匠の一つだろう。それは世界にわたりあう緊張感ある存在としては成立していないのだ。造形の可能性・不可能性とは対峙せず、スリリングでもない。そして野生としての造形力を削ぎ落として、洗練の方向に向かうばかりで、あとは自己様式のバリエーションから抜けることが出来ない。その自足感は陶芸と言う素材との独特の自愛に満ちた巧みの世界と、その世界だけでしか通用しない言説が保持しているらしいのだ。
私は無論、 この世界のプロパー批評家では無いし、何も知らない外部の人間として現代の造形の中で興味深いものしか扱ったことが無い。
樋口健彦の作品に出会ったのは、たまたまそれも現代美術系のギャラリーであったからであろうか、陶芸とはまず思わなかった。この初見の造形に震撼し、すぐさま批評を物したことがある (美術手帖1996.6)。同形反復のグリッドを重ねた作品は、床に深く沈んで、存在そのものが周囲に特有の不可視のバイブレーションを与えていた。そのような表面的な造形デザインではない簡明な作品は、世界と抗していたのである。
そのような樋口から久々に連絡があり、近作では金を使った作品を試みていると聞いた。すぐさま私がいぶかしんだことは言うまでも無い。 金のような強い主張をするものを被せれば、当然装飾的な甘さのままに、キッチュな代物に堕すのが落ちであり、これまでの美質が台無しになる危険は大いにあるだろう。金は禁じ手というか、リスキーなものであることに違いは無い。
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その作品を期待と不安を持って実見する機会を得た。
作品は粘土を積み上げてゆき、その表面はコンクリート片で叩いてニュアンスをつけているという。赤土に黒釉を塗ったものを、内側あるいは外側に木の面で留めることで、焼成時の動きを矯めている。
どうやら金になったことで明らかにかたちも変化していることがわかる。ドーム型の屋根がかかったような形は以前から制作されていたものの、 円筒形の作品はこれまでなら底部を平らにしていたが、ここではほぼ正円に近いものにしている。これはどうしたことなのだろう。金は一つの崇高なかたちの極北を指し示しているがゆえの醇乎としたものを志向させるのだろうか。
しかし全く逆のかたちのベクトルも現れてきているのが興味深い。最後に近く出来て今回のこのパンフレットには載らないかも知れないが、底部無しに平らな面が二つ脚部として立ち上げ、揺動するようにその脚部を渡した上部がいささか傾斜している。
これまでも実は小品のかたちでコの字型、ロの字型の作品のように、比較的薄い面の造形は垂直に立ち上がっては、また水平にベクトルを変えて存在していた。 今回も枕のような、テーブルのようなかたちが出ている。 しかしここに来て実にある厚みをもって垂直に立ち上がろうとする造形の意志が出てきたことは興味深い。だから金の塗布という表面的な変化の方だけに人は目を奪われるべきではないのだ。
これまで初期の有機的と言う意味で「オブジェ的な」作品の垂直の意志以来、この作家は久しく床というものに沿って静かに存在の吐息を立てていたはずである。その間20年近く、初めに記したようにわざわざ土を切って重ねた、グリッド化した重層体が樋口の作品の基調となっていた。あるいは無数の孔を穿たれた巨大な球体。そこにひとしなみに墨によって土の味は消され、その果てに微細な蠢きを秘めて求心的に存在していた。
作家は徹底して床(大地といってもいい)との関係において制作して来たように思われる。作品は個として世界と対しているゆえか、しっかりと床、あるいは壁に沿ってかたち成してきた。それが今回は底部を除き、細い壁を立て繋げるように造形は垂直に立ち上がろうとしている。 竪穴式住居から木造建築の立ち上げ? 少なくとも作家は堅牢な安定した実体を止めて、生まれたてのかたちのように重力の意識のもとであらためて造ろうとしているのではなかろうか。
あらためて考えてみれば、金とは色彩ではない。 それはこれまでの樋口作品の基調と成っていた黒にしても同様だ。これまでの作品は光りを吸収して、ただに地肌の触覚を伝えて、深く沈黙していた。金も光りを付き返し、その存在は半ば見えなくなるだろう。無数の孔を穿った球体の作品について作家はかつてこのようなことを言っていた。「穴を開けると、影になるじゃないですか。 全部穴になると、なくなるじゃないですか。」むしろその消去の方向の只中で、存在を見詰めようとしている点で樋口作品は一貫していることに気付く。「気配をつくる」と作家はふと漏らす。 そのようなことは実際の作品を見るまでは了解できなかった。
それをどのようなライティングで見せるのかは詳らかではないが、金を塗布されながらも、そのマチエールとニュアンスは一様ではなく、むしろ繊細な泡立つ界面は沈黙しながらも饒舌なこれまでの作品の在り様と同様であった。ここに作家の幾何的な単純造形の構造の追求から、実は微細な動勢が孕まれようとしている点を見逃すべきではない。
樋口健彦はセラミックを扱う日本の作家としてはめずらしく、 一貫して周囲の環境への働きかけを維持してきた。とは言ってもインスタレーション的に自在に展開して来たわけではなく、逆に禁欲的で求心的な造形を追及してきた。 しかし作品は反転して見えない磁場を周囲に放ち、時に金属と接合させながら、近年の公共の建築との関係の中での仕事を通して、その意識はさらに意識的になって来ていると言うべきであろう。
初期の「ジャンクアート的」作品における空間の異化から始まり、これまでの黒のモノトーンによる幾何的なグリッド作品を経て、今また金による造形の立ち上がりを向かえつつあるように見える。そこで作家はこれまでの幾何的な造形的拘束を自ら解くのだろうか。音を立てて自壊していったような歪み立つ初期作品とは全く別の形でその造形は長い沈黙から醒めつつある者のように軋みつつ、歪み、立とうとしているかに見える。ただし未だその兆候が見えたに過ぎないが、これは作家の転回点となるのであろうか?かたちの存在から、新たに造形が立ち上がり、イメージ生成が始まるとしたら、その中でこれまでの樋口作品と同様に大きな、そして奇妙な存在で在り続けられるだろうか。注視していきたい。